真田信尹(さなだのぶただ)公の菩提寺/北杜市 自然葬・永代供養  曹洞宗 龍岸寺



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龍岸寺興造縁由

当寺は、今を去ること六百有余年、室町時代初期の応永七年(西暦1400年)、甲斐武田家十一代の刑部太輔信成の子、栗原七郎左衞門尉河内守源武続入道常俊公を開基、真言宗の僧であった海秀法印を開山第一世として創建されたと伝えられています。因みに室町幕府三代将軍足利義満によって金閣寺が建てられたのがこの頃です。しかしながら九十年余を経た明応元年(西暦1492年)火災に逢い堂宇が消失した事もあって衰微の道を辿り住職不在の時が続きました。その後、永正元年 (西暦1504年)、世は戦国時代の動乱の中にありましたが、里人の再興の願いに応え、徳高く敬慕されていた曹洞宗清光寺の二世南浦玄清大和尚の手で堂宇が再建され、曹洞宗に改宗、開堂法要が営まれました。下って慶長年間の六世利山玄益和尚の代に、当地の地頭であった真田信尹公(のぶただ 真田幸村の叔父)が当寺を菩提寺とするに至り諸堂舎が整えられ創建以来最も壮観を極めました。寺紋が武田菱と六文銭であるのはこの由緒に由来します。当寺では信尹公を中興開基とし、その夫人以下三代の御霊をお祀りしています。

寺山号の起源

寺には通常、寺名である「寺号」の他に「山号」があります。これは古くは寺院の多くが山
岳に建てられたことに由来すると言われます。
口伝に、応永年間、歳を経た大蛇が当地に出没し里人に怖れられていたのを見かね、開基である入道常俊公が帰依していた真言僧海秀法印を招請して七日七夜の加持祈祷を修法したところ、境内の弁天池よりにわかに雲が湧き起こり、大蛇変じた龍がこれに乗じて西南の方角に飛び去ったと伝えられています。この時、修法された徳水浄塵慧雲含潤の法から、山号を「徳雲山」、入道常俊公自らの法号である「龍岩」を寺号としたと伝えられています。実際、天保年代までは当寺は龍岩寺と表記されていましたし、今も境内には弁天池があり、寺の西南には「竜走」の地名が残っています。他にも七里岩が奔龍に似ているからという説、禅語の「龍吟雲起」からとったと言う説などもあります。


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