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  2. 真田信伊(のぶただ)公のこと

当山境内墓地の一画に、真田昌幸の弟で信繁(幸村)の叔父でもある真田信尹(さなだのぶただ)公とその夫人と長子長兵衛(幸政)、次子左兵衛(幸信)の墓碑が残っています。
信尹(のぶただ)公は武田信玄に仕えてその一族である加津野家を継ぎましたが、武田氏の滅亡により再び真田姓に戻りました。信尹(のぶただ)公にまつわる逸話も多く、また公の歴史的な評価には諸説ありますが、激動の戦国乱世を逞しく生き抜き、永く明治維新まで真田の家名を残す礎を築いた武将であると言えるでしょう。
信尹(のぶただ)公は、当時としては長命で、寛永9年(1632)5月4日、齢86歳で永眠しました。法名は「徳盛院殿真田無済居士」。夫人は信玄に仕えた武田四天王の一人で鬼美濃と呼ばれた戦国武将、馬場美濃守氏勝の娘で、法名「養華院殿月浦宗香大姉」。
菩提寺であった当寺には、麻裃や鞭、馬杓、陣笠、蔵書である弄泉奇鑑など、往時を偲ばせる信尹公縁(のぶただこうゆかり)の品々が今に伝わっています。(現在これらの品々を長野市松代町の「真田宝物館」に寄託しています。)

真田信尹(信昌)は、真田幸隆(真田家初代)の四男、すなわち昌幸(上田城主幸村の父)の弟である。昌幸とともに若年より武田信玄に仕え、武田一族の加津野家を継ぎ、加津野市右衛門、ついで同隠岐守と称している。後、真田姓に復する。天正10年(1582年)の武田氏滅亡後は、いち早く徳川家康に仕えた。同年9月昌幸が家康に属したのは、信尹の斡旋による。この後も、昌幸と徳川との仲介役をつとめている。一時会津の蒲生氏郷(がもううじさと)に仕えた後、再び徳川家へ帰参、旗奉行となり、関ヶ原、大阪両陣に供奉し、その功績により千石増加され合計四千石となる。慶長19年(1614年)甲斐国巨摩郡の内に、采地をあたえられ御使番となる。慶長年間、龍岸寺6世利山玄益和尚の時本堂の再建、緒堂を建築して龍岸寺中興開基となった。この故に真田家家紋の六連銭が寺紋となっている。当時大蔵村(須玉町大蔵)に居住し、現在その屋敷跡を残している。寛永9年(1632年)5月、86歳で没、知行地でもあった龍岸寺に葬られた。この墓には、信尹夫妻以下3代が葬られている。(長坂町教育委員会)
真田信伊公と夫人、長子幸政、次子幸信の墓所。わずかに碑名が残る。
本堂の大屋根と破風を飾る武田菱と六文銭
改修された総門の棟を飾っていた武田と真田の家紋
左:武田氏家紋「武田菱」/右:真田氏家紋「六文銭」

往時を偲ばせる信伊公縁の品々